映画「Inception」を哲学的に解いてみた。
以下ネタバレなので観ていない人は注意。
Inception -インセプション-というのは、「始まり」という意味だが、映画を見ても結局何が、「始まり」だったのかはそうわからないだろう。
主人公コブがターゲットの夢の中に意識の根底へと段階を踏んで潜っていくことで見つかるそれは、つまりフロイト的哲学で言えば、"Oppresed Memory-抑圧された記憶"の発見である。"Oppressed Memory"とは子供の頃などに受けた精神的トラウマは、普段生活をしているときは意識の表層のしたに抑えられ、隠されているが、これが意識という強固な檻がない世界、無意識の場で(大抵においては夢の中)は解き放たれ、そのトラウマ的シーンが何度となく繰り返されるのだということだ。
コブがターゲットであるターゲットの夢の中で繰り返し見る妻との殺戮攻防劇がそれである。
コブは普段、Extractionといってターゲットの潜在意識に隠された(つまり夢の中で無防備になっている意識)アイデアを盗み取るというのが仕事であるが、この映画で行われる劇はコブが謎の実力家、サイトーに依頼されてInceptionアイデアの植え込み、を引き受けるところにある。コブは妻殺害の容疑をかけられ、子供と会えない状況なのだが、サイトーがコブの犯罪歴を抹消するということを引換に依頼。そしてコブは引き受けるのである。
コブはしかし以前Inceptionを行っていた。コブは妻であるモルと虚無の世界で静かにふたりだけの人生を過ごしていたが、コブはある日そういった日々に耐えられなくなり、モルと現実世界に戻ろうと説得する。しかしモルはそれを拒否する。どうしても現実世界に帰りたいコブは、モルの潜在意識の金庫を見つけ、自殺すれば自分たちはもっと良い暮らしができるのだという潜在意識を埋め込む。(実際はモルが)そうして一見成功したと思われるこの潜在意識の埋込みは、一緒に電車に轢かれて自殺を試み、現実世界へと帰った二人に悲劇をもたらす。モルは現実世界に帰っても、そこは夢なのだから、現実世界に帰らなければ、死ななねばと考えるようになる。コブが受け付けた潜在意識が元で、である。
そうしてモルはコブに止められるまもなく、ある日ホテルの上層階から飛び降り自殺をしてしまう。
こうしたモルの本当の死をもたらしてしまったという悲劇がコブの中ではトラウマ、Primal Sceneとして意識の中に埋め込まれるのである。ひとつ違うのは、彼がこれを自分のトラウマとして最初から意識しているということだが。
この「意識」というのが後に大事になっているので覚えておいて欲しい。
コブはサイトーの依頼を受け、ロバートの潜在意識へと入り込む。
まず、第一階層で列車がいきなりコブたちの前に飛び込んできて邪魔をするが、これはモルとコブが轢かれた列車だと考えられるだろう。
そして、第二段階、第三段階へと進むとモルがまた現れ、メンバーの一人を殺害し、サイトーも瀕死の重傷を負う。強力な鎮静剤を使用しているために、万が一虚無に落ちてしまった場合、戻れなくなってしまう可能性が高い。(キックをしてその上の階層で衝撃が訪れたとしても、鎮静剤のために目が覚めないからだ。)
ロバートはモルに第三階層で殺され、虚無に落ちる。コブとアリアドネは最終段階の虚無へと向かう。
虚無には、コブが作り出した世界がある。そこにはモルの生家、そして二人が暮らした家がある。
二人はそこへ向かうとモルを発見。コブはモルが自分に会いにこさせるためにロバートをそこに捉えているとわかっている。
そこでモルはコブに一緒に暮らすように懇願する。コブはもちろんそこが虚無だと意識しているため拒むが、モルが襲いかかる。まあここでコブが死ねば、第三階層に戻るだけだが、それをアリアドネが阻止、モルを銃で撃つ。
ここ虚無の再訪で、コブはようやく自分の潜在意識と向き合うのである。虚無の世界でインセプションを行い、モルを死に追いやったコブは明らかにモルの死に責任があり、力関係はコブの方が上だが、夢の中ではそれが逆で、コブは常にモルに追われ、彼女に任務を邪魔される。夢の中、無意識の潜在意識の中では力関係は逆になるのだ。これはフロイトの考えとも同じである。
モルは自分の意識の投影だ、と意識しながらモルを手にかけることができなかったコブ。そして、始まりの場所である虚無で、アドリアナによって殺されたモル。ここで自分のトラウマを繰り返すコブは、ようやく彼女の死に向き合い、自分のトラウマから解放されるのである。
「意識」が大事だといったが、これはコブが始まりの場所である虚無においてそこが夢であるという意識を持ち続けたことである。モルはこれを捨てた。そこが現実なのだと思うことに決めたのだ。モルは現実と夢の境界線を区別するトーテムを捨てた。そうして自分の潜在意識に現実は存在しない、そう決めたモルのアイデアを利用し、コブは逆にモルの潜在意識の中でトーテムを回し続ける。トーテムを回すことは、つまり現実と夢が存在するという意識だ。そして潜在意識の中で、現実と夢を意識したモルは、そこでコブに「死んで、現実世界に帰らなければ」という意識を植えつけられる。これがモルのOppressed Memoryだ。その潜在意識をもったまま現実に帰ったモルは、死ねばもっと素晴らしい世界に行けるという考えが頭の中で成長してしまい、自殺に至る。(うーん、難しい)
サイトーは虚無の中で年をとるが、コブと会い、約束を果たしに来たというコブにそういうことが夢の中であったような気がすると思い出し、ともじピストル自殺をし、第三階層に戻る。サイトーのOpperessed Memoryはもちろん最初の段階でのサイトーとコブの「約束」である。
Oppressed Memoryに関してはこんな感じですね・・・詳しくはこちら。
他人の夢の中で自分の潜在意識と向かい合いながら、他人の潜在意識を変えていく、ってもうなかなかに難しい構造ですよ。
劇中に繰り広げられるアイデアなんかを一つ一つ見ていくと、ノーラン監督がどこまで深く練り上げたのかすごく実感しますね。
そもそも夢を構想していく、造り上げていくという考え自体、人間の意識は建物のように階層や、組立というようにして作り上げられているという考えが見られますし、アリアドネがコブと夢の中でいろいろ夢世界を建造していきますが、そこにいる人々が自分たちを異質な者として人間の抵抗のように排除しようとする構造と、コブの中意識の中のモルがコブがモルを死に追いやったというトラウマが引き起こす抵抗のようなものとして作用していることとか。(つまりモルは他のものを排除して、コブと二人になろうと仕向けるが、これはモルの仕業なのではなく<もちろんこの時点でモルは死んでるから>、実はコブの潜在意識、つまり妻を死に追いやった、からもう一度最初からやり直したい、という原意識がそうしているのである。夢の中では力関係が逆なので、例えば囚われの身のモルが夢にいて夢の中の人々が彼女を殺そうとしているところを助ける、とかそういった力関係ではないのだ。)
うーん、深い。
さて、コブはインセプション-植え付け-を成功させるには単純でプラスな感情が良い、という。なぜなら植えつけられた感じがしないから。
イームスが以前行ったインセプションが失敗したのは、行った階層が浅かった、つまり第一階層もしくは第二階層にて行ったと考えられる。
要するに深い階層で行ったほうが良い、虚無で行えば一番良いのである。(ロバートのインセプションは第三階層で行われるのだが)
この虚無、英語ではLimboという。意味にしてキリスト教で言う辺獄、または拘留所、監獄など。あまりいいイメージはないが。ニーチェはキリスト教を批判するとき、ニヒリズムという考えに基づいて批判する。虚無主義だ。(キリストが全ての人に平等の愛を、と説くときそれは誰も愛していないということなのではないかというのである。」虚無主義とは、全てのものごとは過去、現在、未来においてすべて繰り返しの生を生きていることであり、すべての物事は人間が意味を付与した意味のないもののくり返しであるということである。だが、ニーチェはこの世界を意味がないものとして積極的に意味がないと知りながらも、そこに意味を付与していく姿勢、仮象を作り出す姿勢を推奨し(楽観主義)、生きること、意味を付与することを行わない受動的ニヒリズムの姿勢を批判する。(悲観主義)
確かにこの物語の中では、繰り返しモルが出現し、コブの邪魔をするという構図が現れる。虚無において、潜在意識へと潜ったコブがまた妻の死を体験することでしかし、この輪廻は断ち切られ、虚無から抜け出すのである。つまり、同じものの繰り返しを断ち切り、ニーチェ論の否定へと向かう。歴史は繰り返されているようで、弁証法的に発展しているという考えだ。
ナチスが権力を伸ばしたのは、このニーチェ的永劫回帰の考えによる。つまり、人間は理性的な動物ではなく本能で権力を求めたがる弱肉強食的構造を主張し、常に革命状態を維持することで、権威を得ようとしたのだ。
このナチス構造が破壊された時点でニーチェのニヒリズムは証明し得なかったわけであるが、インセプションもある種そういった初期トラウマの繰り返しからの脱却という風に読み取れるかもしれない。
(深読みしすぎかな)
ソース
http://u10so2.tumblr.com/post/4309389751
永劫回帰
ニヒリズム
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