Restless
*ネタバレあります
死の匂いがする何かが好きなのだ。
人間はいつかは死ぬ、それは生きているものはすべて同じ。
というか生き物は、というか人間は生まれた瞬間から死へのカウントダウンなのだ。
生まれた瞬間から、死の瞬間へカウントダウンが始まり、その間に私たちは人生というものを歩むのだ。というより、死というゴールへの道が人生なのかもしれない。
まあ、これは誰かの受け売りだったかも。
人は大体において死という存在を忘れる。それは確かに全ての終わりを意味するのかもしれないし、死んでしまったら人生という世界で生きる術をなくすのだ。ゲームーオーバー。
思えば、小さい時から死を意識していたかもしれない。自分の手のひらを見つめて、「わたしは生きている」と何度も唱えてみると、"自分"という存在があやふやになってくる。私という人間は?私は生きている?生きているってなんだ?の繰り返し。
日本映画に詳しくはないのであくまで海外の話でしかわからないが、欧米では死を見つめた作品は多いように思う。それでまた、大体はガンの話で、死へのカウントダウンをどう過ごすかという話なのが、それなりに死を感じられるのではないか。
ヘンリー・ホッパーとミア・ワシコウスカは美しすぎるので、「私のなかのあなた」、よりも現実見は薄いかもしれない。もっと幻想的で、あからさまに物語風で、絵本みたいだ。美しい涙を誘う。ヒロシのくだりもそう。第二次世界大戦の時に特攻隊として死んだヒロシが、イーノックの友人で幽霊として現れ、彼はアメリカと日本をクールな友人関係だという。まあ、ここでの主題は美しい恋人との間の死の物語についてなので、そっちの関係について述べるつもりはないが、いってみれば全てを美化しすぎているような気もしないではない。
話は変わるが、いってみれば、失うとわかっているなら、有効にそれを使えるはずだ。自分がいつ死ぬかなんてわからないのだから、いつ死んでもいいように、決めておけばいい、自分はどういうステップを踏んで、自分の人生で何になるのか。
物語の形はどうであれ、こういった死を扱った映画を見ると、何度も思い出すのだ、すぐそこにそれはいつもあることを。
それを生きているうちに辛いものとして受け取っておけば、その生の大切さをきっと感じられる、きっとその痛みが生なのだ。
思うのだが、先のことを考えるのが人生を生きるということなんじゃないだろうか。ただ、死ぬことを思うのではなく、死というゴールの直前までを考えることが生きることだ。と、本当に辛かったときは思った。死ぬことのみを考えること、未来を考えるのをやめるのは死んでいるのと同じだから。
全部みていないので、大層なことは言えないのだが、ガスヴァンサントは、死を扱う作品が多い、ように思う。
物語の語り口、幸せな死、突然の死、悲しい死、それはばらばらだが、彼の作品は何度も何度もw他したちに死という衝撃をぶつけてくる。それは突然かもしれないし、あらかじめ知らされていることかもしれないが、その死によって我々はようやく生を感じる。
人によって生き方はそれぞれだ。死に方もそれぞれ。
アナベルは自分の死をかなり落ち着いて受け止めていて、むしろそれを茶化しておもしろがったりする。反対にイーノックは死というものが大きすぎて、受け止められない。
それを目の前にぶらさげられて、両親の死も、アナベルの死も、ヒロシのことも受け止められないのだ。まあ普通はそうだろうが。アナベルの茶化し方はまるで、人間の死なんて、人生なんてちっぽけだから、そんなに悲しむことでもないし、自分のやりたいように奔放に生きることが、死ぬことがすべてだ。
そういえば、エドワード・ゴーリーの「ギャシュリークラムのちびっ子たち」という絵本があって、小さい時に読んで恐ろしくなったのを覚えているのだが、知っている人はいるだろうか。A-Z順に子供がいろいろな死因で死んでいくのを、シュールに追っていくだけの絵本で、衝撃的。そんな感じだ。アナベルとイーノックが病院の死体安置所で、いろいろなひとの死因を予想している。そんな風に語られる物語になる。
ただ、ガスヴァンサントは映画で簡単に死の存在を受け入れてしまう。それまでずっと視聴者の目の前にぶらさげられていた死が、あるところで、すっと物語の中に入ってきて、受け入れられてしまう、そして人生は続く。あまりにも自然すぎて、あっけないといえばあっけない。物語というよりは、日常的な出来事だが、それを映画内で、あまりにも"ドラマチックすぎる"セリフを入れられたりして、あれ、映画だったか、と気づく。"あまりにも"なものにされた瞬間から、それは自分たちの手を離れて、別のものになる。つまり、語られる物語になる。それは、アナベルの死も一緒だ。実際のものだったが、語れることで、告別式でお別れの言葉を通して物語になることで、その人から離れる。ガスヴァンサントはそうやって、私たちに"物語"を通して、死を突きつけてくると同時に、それを私たちの手から離すようにしていく。これは一種の乗り越え方かもしれないが。
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