Baths / Obsidian 8.6 / 10
Bathsの新作、Obsidianはこれまでの和やかで浮き立つようなポップというのとは一転して、その顔を真っ黒に染め、白い煙に包まれたWillくんが何やら怪しい声を荒げる作品となっている。
だが、作品全体の音が暗いというよりは、むしろその音はよりなまめかしく、深みを増したポップ作品になっているように思う。
暗い内容の暗いポップアルバムというよりは、より自分の内面そして音楽性を深め、下へ下へと降りて行った作品なのではないだろうか...
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Will WiesenfeldはBathsとしてのセカンドアルバムをただただ自分を外から見つめ直した作品にしたがった。Ceruleanの製作、プロデュース中、そして演奏中、彼自身があるところでは独立したということを示しているようだったが、彼はすぐに自分が多重人格性にとらわれており、その後ろに隠れてしまっているということに気づき、また観客とも完全につながることが出来ないでいたし、さらにはDJであるという誤った見解までされてしまった。さらに酷なことには、彼の身体的な骨組みは彼をダメにしてしまったようだ。去年、一時大腸菌による病気でダウンしてしまったとき、Willは食べることもベッドから出ることすらできなかったし、ただ新しい音楽を好きに思い浮かぶまま作っていた。そしてゆっくりと病気が快方に向かうと、うっ積したこのフラストレーションと欲望の全て—逃避、芸術的成長、そして変化、死、そして自己実現—といった方向性へと注いだ、Obsidianという作品に。そしてそうすることで、彼はただセカンドアルバムを作ったのではない。彼は悪魔の双子を作り出したのだ。
ObsidianはCeruleanのいくつかの側面をそのまま維持している、つまり、このラップトップを駆使した、Wiesenfeldの頼りない震え声、そしてその声からわかるショックというものは完全にこれまでの軸を中心に方向転換させており、恐れず個人的な影響や有罪をなかったことにした。つまり、ぞっとするほどひどく音楽的イメージやゆがんだ歌詞というものを追い求めたのだ。Ceruleanでは、どの程度Wisenfeldが紫や真っ黒なものに独占的に取り組んでいたのかはわからなかった。弱さを越えて、つながれた囚人がWorseningでよろめき、Wiesenfeldの疲れきった暗唱は、新しく健康的になった面、病的な詩人であること、の二つの面を見せる役割をした。そしてObsidianが主題としている、--誕生というものはまるで「太った黒い舌のようだ/タールを注ぎ、染める/:そしてそれはゆっくりと震える目の中に」ということなのだ。その体を最近基本的な身体機能をも最大限に奪われ頼りないということを経験した者として、Wiesenfeldは全てに死というものを垣間見ている。大きな岩棚や雲に覆われた空気はMiasma Skyにおいて死後の世界への入口を観ている。このMiasma
Skyは先行シングルであり、Bathのポップに対する考えはPostal Serviceの自殺的観念を持ったバージョンだという印象を与えた。彼は自身が溶けて、重たい金属をガンガン鳴らすやつとして吸い込まれてしまうことを拒み、Earth Deathはその重力を作り出している。
全体を通して、Obsidianの曲群は文学的な意味で捉えれば、形而下のものだといえよう、そこではキャラクターたちの人間的な動きが真似し表現されているのである。Worseningの全く異種の層が重ねられたその照合作業は、単純に驚くべきだと言える、本当にたくさんのパートがぎこちなく、不規則な方向に向かって何か恐るべきもの、流動的な全体の形を作り出しているのだ。Ironworksにおける許されない恋愛は、わかりやすいサティのようなピアノが体の自由を奪うほどに美しく、そして全ての悲しみや、切望、そして優しさといったものがそこにはあり、二人は互いに愛し合うのだ。その間、驚くほどのObsidianの幅が、Incompatibleが前頭を叩くように明らかになってくるのだが、量子化されていないリズムはうまくとれないコミュニケーションや、冷たく冷え切った関係への怒りを強調している。
肉体的適応能力や、暗闇といったことが24歳の青年にはじめから死のイメージと一緒に生まれてきたわけではない。Obsidianはある見方をすれば、「成長した」作品である、キャラクターたちが自分は大人になったという状況に気づいたという見方である。
しかし、キャラクターたちはどうあっても成熟しているわけではない。実際、性的行為は終末論的呪術と同じぐらい虚無主義的なところからその衝動が沸き起こっているからだ。これはObsidianがただよくある芸術的な「飛翔」というよりは、盲信だと感じられることとなっている。声で言えば、WisenfeldはCeruleanでは少し演奏家的であり、よく甘く小さく愛の言葉を囁いていた。「僕を必要としてると言ってくれ」「まだ君の匂いがする、ずっとわきのほうからするんだ」Ironworksでは、彼は自分を「甘美な雄豚/ビクトリアンドアの内側で/激しく乱れた前戯の中で」となぞらえており、進めば進むほどカッコいいのである。
そうでなければ、かなり残酷に匿名の性的なものが、追い求められ、そして慈悲のないNo
Eyesのような機械的な動物の拍ぐらい冷たいやり方で、その性欲は満足させられるのだ。「本気とかそういうのは関係ない/君はただ僕とヤってくれればいい」。もっと不安に感じるのはIncompatibleだが、これはNo Eyesの一部で、同じく毒のある利己主義さがあり、性的な不品行さがより中心に近づいてくる。Wiesenfeldは匠にこうした場面を設定し、へつらわないという同棲に対する見方から言外の意味を埋め込むことに使っている。
こういったことは、Xiu XiuやPerfume Geniusを見ていればそんなにも衝撃的な歌詞というわけではない、彼らは同等の人ではないにしても確かに実体験のように感じられ、どぎつく飾られた、そして同性愛的なソングライティングにおける先例者であり、Bathsはここに位置しているのだ。だがしかし、jamie StewartやMike Hadreasにとっては挑発をする事が主なゴールなのであり、彼ら自身はかなり真剣に、闘争的な一面をレコードの音の間に挟んでいる:つまり、彼らはボタンを押したり境界線を押し広げたりしているが、そうすることによって作品やテーマが「アウトサイダー的芸術」だと思わせたりもしているし、これは簡単にそ見つけられもするが、また簡単に避けられることもありえる。Wiesenfeldはかなり自分の性的関心についてはかなりオープンだし、率直だ、これまで彼がリスナーに投げかけてきた彼のイメージは、常に笑顔を浮かべた、ほおひげのある若者で、アニメやスカイリムのことをツイッターでまくし立てるようなものだった。そうした意味では、社交的で温和なWisenfeldは不快なほどポップに近づくことによって、これまでのそうしたイメージをさらに覆すような作品を作り上げ、私たちリスナーが信じたくないようなことでもって閉ざされた心に面と向かって接しようとしている—たぶんNo EyesやIncompatible、Ironworksで表現されているような、非純粋的なこと逸脱行為のようなものは、人種や階級、性別やもって生まれた性別といったような枠組みに分類されたりすることはなく、また簡単に見たところ厭世的なものだというふうに無視されたり、決めつけられたりすることはない。そうしたことが抑制されようとObsidianのように力強く関わろうと、暗黒面は私たち皆の中に存在しているのだ。もしObsidianを聴けばこう思うかもしれない、「彼にこんな一面があったなんて知らなかった」と、そこからこびりついて離れないのは、こうした面が自分にもあるのだろうかという考えである。
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