My Bloody Valentine
Isn't Anything
Sony; 1988/2012
By Mark Richardson; May 11, 2012
10.0 Best New Reissue Artists:
彼らは存在している。僕は今CDを抱え、今こういうことができる。彼らは存在しているのだと。My Bloody ValentineのCreationカタログのリマスターは正式に発表されていたが、何度も遅れていたし、どれが一番最初に出るのかというのはもはや繰り返し発せられるジョークと化していて、Lovelessのリマスターか、それとも長く待ち望まれていたそれに続く作品かが問題になっていた。ここで推測されていたジョークのオチというのは、「どちらでもない」という結果だった。四年前に流通された先行するコピーというのはしかし、イギリスでのリリースのみであったが、そう、the My Bloody Valentineのリマスターは存在しているのだ。
Isn't Anythingのリマスターに加え、また新たなMy Bloody Valentineのリリースがある、ちょっとしたものだ。EPs 1988-1991は4つのEPとバンドの創作意欲が全盛期だった時のシングルイシューを集めたもので、以前はリリースされなかった(ブートレグは広まっているが)曲も含まれている。このリリースはかなりの革新を与えている。この作品を一大口で受け入れることはバンドの素晴らしさを目撃する新たな窓のように感じられる。You Made Me Realiseは最初1988年にリリースされ、これまでのEPの中でも最高だと思われるもののリストに何度も入れられており、広くその初期の作品よりも改善されていた。彼らはギターノイズは経験していたが、タイトルトラックのようなものを作るのには一度もうまくいったことがなかった、それは至福と恐怖のカミソリの刃の縁を歩くようなものだ。Kevin Shieldsはthe Beatlesのメロディーセンスをかなり崇拝していたが、決して陽気で覚え易い「Thorn」のような曲は書かなかった。そして彼らが作った曲は「Drive It All Over Me」のようなやすやすとできた曲には決して聞こえなかった。最終的に本物のロックバンドとなり、脈打つベースとさわやかなテンポ、ギターに聞こえるギターを兼ね備えていた。 しかし、1988年の終わり、Shieldsは広範囲に渡るシングルとアルバムを統合し、MBVのギターポップイノベーターとしての地位を獲得したのだ。Feed Me With Your Kiss(これは4曲入りEPでもリリースされ、全曲がここに含まれている)の特色となる無題のシングルはもっと甘く、しかし不協和音的へとなる方法を彼らに見出したが、本質的には全てにおけるやり方を一般的な方向に「もっと」押し出したのである。もしFeed Me With Your KissとI BelieveがそれほどまでにRealiseにおいて調和できていなければ、少なくとも彼らはより広域な情緒的範囲でさえもバンドの把握内であるとほのめかしただろう。
Isn't AnythingはMy Bloody Valentineのディスコグラフィーの中でも特異だが、こういった期待を満たしていている。バンドの最高作だというファンもいる。代わる代わるダークでスロウ、そして楽しく活気に満ちている面が現れる。つまり速いテンポの曲、例えばNothing Much to LoseやSueisfine、ドラマーのColm Ó CoísóighakiはKieth Moonのようなフィルをすべての小節の終わりに加えている。スロウな曲は例えばLose My BreathやNo More Sorryといった、ギターが大きく鳴り響き、ガチャガチャ言う音、そしてMBVらしい力の抜けたダークでゴシックな音があり、最後には曲をやめずとも伝わる雰囲気を伝える方法を見つけたのだ。
ここのトラックの素晴らしさ以上にIsn't AnythingはMBVの独特なダイナミックさを具現化している。ノイズポップの領域では欠かせない資料であり、すでにその時はシューゲイズだと呼ばれていたが、MBVの大部分はLovelessというよりもここに見つけうるのだ。しかし、それは明らかにこの一つのバンドの作品なのでもある。My Bloody Valentineの中心というのはDinosaur Jr.とHüsker Düの破壊的パワーと、インディーポップの優美なもろさを混合したものだ。つまりは男性的かつ女性的なダイナミックさが完成しており、ただそれはKevin ShieldsとシンガーでありギタリストのBilinda Butcherの間の素晴らしい相互作用を通してではなく、ギターノイズに対抗する彼らの声のエフェクトを通して完成されている。My Bloody Valentineは新たな両性の官能性をポップの中にこめるという表現を提示し、かなり性的ではあるがまた、抽出された音楽を作り出し、細かいところには欠けるが感情を伴ったヘビーさを持っていた。そしてIsn't ANythingはほかのレコードとの関係性の中に存在する必要はないのだ。もし彼らがここで活動を止めていたなら、My Bloody Valentineの名声は確実だっただろう。幸運なことにかれらは活動を止めたりしなかった。他の画期的な出来事がその時期にあったのだ。
しかし、彼らがそこに行き着く前にMBVはさらに二つのEPを提示し、二枚とも1988-1991コレクションに収録された。Gilderは1990年のもので、彼らが以前やっていたサウンドからはかなり変遷が見られる。最初のシングルのSoonは物議をかもし、Brian Enoが「新たなポップのスタンダード。これまでにヒットした音楽の中では最も漠然とした曲。」と表現したことはよく知られている。そのぼんやりとしたとこらが次に述べることの重要な鍵なのである、というのもShieldsは自分の初期のアイディアを取り上げて、それをどれだけテクスチャーや純粋な感覚の領域に押し出せるかを考えていたからなのだ。つまりSoonはそのドラムのブレイクビーツとコードチェンジやメロディ、そして一方ではsongのようにも聞こえるが、存在しない記憶の中の歌らしいとわかるまでは、すべてがぼんやりとしている。そしてこの霧深さは推進力やギターが入っていくる時のノイズへの衝撃を失わずに発生しているのである。明らかに物事はMy Bloody Vslentineとはかなり異なっていた。
Gilderはインストのタイトルトラックのよって完成され、ショーケースでその曲を披露した時Shieldsはフェーズシフトを使ってリズムの特徴をわからなくさせ、もともとあった畏敬の念が入り混じった、不安な感情を作り出した。ちょっと「間違っている」ようにも聞こえるが、見事でもあり、そして少しばかりちょっと前の曲のようでもある。MBVの続くEP、Tremoloは出資金をさらに上げた。これは純粋にLovelessの対をなしている。よろよろしたTo Here Knows Whenで始まり、Glinderのくらくらするような精神錯乱状態を取り上げて、Butcherの信じがたいほどの霊妙さを兼ね備えたボーカルと混合しているのだ。ずっと 破局してしまうような縁にいる感覚がありながら、深層にある感情の緊迫状態を添え、あたかも傷つけられたディストーションが無邪気なささやきと出会ったかのようである。二つを飲み込み(Swallow)、ループするハンドドラムとケルト音楽のシンセライン、そして破壊的なHoney PowerがLovelessでは全くの素晴らしい美としてマッチしている。
ご想像の通り、Kevin Shieldsのような完璧主義者が地下貯蔵室に素晴らしい残り物をリリースしないでおいておくわけはないし、それはEPコレクションを満たしたおまけについては真だと言える。Instrumental 1はドラムの小休止とギターノイズのミックスで、今後ありうる方向性を示唆するようなサウンドは少なく、逆に(MBVが)インスパイアしてきた多くの音楽の退屈な例のようになっている。10分のGlinderバージョンが歓迎されたのは、永遠に続いて欲しいと願うような催眠術の復唱のようなものを土台にしているからだ。だが、歯切れの良いポップチューンがディスクの最後にもっと良いのにと思う--SugarやAngel、Good for youといった曲--これらはEPの中でも素晴らしい作品だという褒め言葉である。
Tremoloは3月に発表され、Lovelessがその年の11月に世界公開されるまでには七か月の空白期間があった(NirvanaのNevermind6週間後)。Lovelessへの期待が高かったことを言えば、控えめな言い方ではあるが、すべて想像範囲内のやり方で届けられた。いくつかのポップアルバムは決まって宗教的観点から表現されているが、これはその一つである。その理由の一つには(魔よけ)塩効果のある聖書のように、解釈を大っぴらに残しているのだ。Enoの引用に戻ると、そこには多くのこういった曲が「意味」しているようなことは言っていない、それは歌詞を読んだ後であっても同じである。彼らは頭の中心にあるような言葉やその他の分野--記憶や触覚、そして感情の分野--を司る脳内にあるような言葉も使わない。このアルバムは頭で理解する以上に感覚器官でもって感じられるだろう。
この時にはKevin Shieldsはバンドリーダーというよりも狂った科学者のようであり、継続して新たな音を発展させたり改造したりしていた。彼は実質的にはすべての楽器を演奏したし、(Ó Coísóigによる一分のTouchedを除けば)取りつかれたように一番小さな詳細にいたるまで改造をした。そして、Lovelessの真というのはそのミックスなのである、一つのサウンドから次へと至る際の完璧な均衡なのだ。2つのEPを導くハイライトはその軸だ、しかし実際Lovelessはすべてが注目に値する。私は人生で何千ものアルバムを聞いてきたが、これは本質的に完全な作品として私の心に響いた数少ないもののひとつである。これはまた二つの世代を驚くべきサウンドとして現れる音の可能性に、リスナーの注意を向けさせたアルバムである。もしインディー音楽ファンがどのようにテクスチャーにある感情の可能性に耳を傾けるよう教えられていなかったら、Fennezのような人がそんな摩擦が大きいところに近づいていくのを想像するのは難しい。これは年月を衰えさせない歴史的産物であり続けている。
これが導くのはあるリイシューに対する、たくさんの奇妙で皮肉がこもった事柄の一つである。つまり、完全とは2つの競いあうバージョンがあってこそ提示されるということだ。Lovelessは2xCDセットでリリースされ、一つはオリジナルのDAT(デジタルオーディオテープ)からリマスターされたもの、そしてオリジナルのアナログマスターからリマスターされたたものだ。この妙な決定の裏にある理由は私たちが完全に理解することはできないだろう。ほかの場所で指摘された通り、2つのディスクが間違ったレッテルを貼られるとか、そのハーフインチアナログのマスターがDAT(デジタルオーディオテープ)からリマスターされたと理解され売るというのはありえるが、それは逆の場合も同じだ。これはこちらでもあちらでもない(どちらでもない)のだ、もしまともな考え方をする人は自問自答して、「どっちのLovelessリマスター今夜聞いたらいいだろうか」なんて聞いたりしないと思うなら。
Shieldsが言うには、エフェクトの違いというのは累積するものだし、すべて聞いたところでもって完全に理解されるのだという。3つの異なるヘッドフォンでCDを聞き、さらに二つの、質を変えられるステレオシステムで聞いたところ、ちょっとは異なるが(一つはわずかに音量が大きかったが)質的な違いというのは極めて小さいといえる、ベストを尽くしてもだ。そしてリマスターのWhat You Wantには電子的な溝がある、これはどれだけリマスターするのに時間がかけられたかを思うと滑稽で笑ってしまうし、また悲劇的でもある。だがら私が聞くときはそういった誤りを無視して聞こうと思う。
詳細は置いておいて、三つのセットのリマスターはすべてよくできている。Lovelessは非常にそして適切な具合で最も静かな「ラウド」レコードの一つであり続けてきた。iPodで聞くときは、ボリュームを常にマックスに近づけても聴力が傷つくなどとは感じないだろう。そしてこのスキが確実にレコードのダイナミクスでうまく働いているのである。つまり、ギターがSoonやOnly Shadowで高まってくると、もっと心底から震え上がらせることだろう。
一番重要なのは、この音楽が存在しているということであり、おそらくこの先出来うる中でも最も良いサウンドだろう。一バンドとしても一つのアイディアとしても、My Bloody Valentineは多くの物事を表象している。つまり音の完璧主義者、並外れた野心や過剰さといったことだ。しかし、とりわけ彼らが具象化している質というのは忍耐である。彼らはリスナーを待たせるのだ--素晴らしいアルバムへの応答、素晴らしいアルバムのリマスターバージョン、そしてさらにDコードで演奏したライブバージョンのYou Made Me Realiseが最後に発表された。バンドの中にはそれが欲しいなと思ったその時に、求められるものすべてを的確に与えてしまうバンドもいる。それがMy Bloody Valentineにおいては、こちらから歩み寄って、彼らのやり方で音楽を経験しなければならない。しかし、彼らが求める要求はたっぷりと除外したりしない。実際、彼らは何度もリスナーの献身に応えている。何年もの間、Kevin Shieldsは続くLovelessについての難点を話し合ってきた。その話はたいてい金の問題が中心だった--彼はどれほどの契約金を得、彼はその音楽をよみがえらせるための資産がどれほど足りなかったのか、またそれを世界にリリースするにはどれほど資金が足りなかったのだろうか。これらのリリースはいくらかのお金をリスナーに与えるあろうが、My Bloody Valentineの奇跡的な年月、1988年から1991年の間の作品はまたこういった商業の外にあるのだ。もっとも贈り物のようには感じられるだろうが。
Pitchfork; My Bloody Valentine
彼らは存在している。僕は今CDを抱え、今こういうことができる。彼らは存在しているのだと。My Bloody ValentineのCreationカタログのリマスターは正式に発表されていたが、何度も遅れていたし、どれが一番最初に出るのかというのはもはや繰り返し発せられるジョークと化していて、Lovelessのリマスターか、それとも長く待ち望まれていたそれに続く作品かが問題になっていた。ここで推測されていたジョークのオチというのは、「どちらでもない」という結果だった。四年前に流通された先行するコピーというのはしかし、イギリスでのリリースのみであったが、そう、the My Bloody Valentineのリマスターは存在しているのだ。
Isn't Anythingのリマスターに加え、また新たなMy Bloody Valentineのリリースがある、ちょっとしたものだ。EPs 1988-1991は4つのEPとバンドの創作意欲が全盛期だった時のシングルイシューを集めたもので、以前はリリースされなかった(ブートレグは広まっているが)曲も含まれている。このリリースはかなりの革新を与えている。この作品を一大口で受け入れることはバンドの素晴らしさを目撃する新たな窓のように感じられる。You Made Me Realiseは最初1988年にリリースされ、これまでのEPの中でも最高だと思われるもののリストに何度も入れられており、広くその初期の作品よりも改善されていた。彼らはギターノイズは経験していたが、タイトルトラックのようなものを作るのには一度もうまくいったことがなかった、それは至福と恐怖のカミソリの刃の縁を歩くようなものだ。Kevin Shieldsはthe Beatlesのメロディーセンスをかなり崇拝していたが、決して陽気で覚え易い「Thorn」のような曲は書かなかった。そして彼らが作った曲は「Drive It All Over Me」のようなやすやすとできた曲には決して聞こえなかった。最終的に本物のロックバンドとなり、脈打つベースとさわやかなテンポ、ギターに聞こえるギターを兼ね備えていた。 しかし、1988年の終わり、Shieldsは広範囲に渡るシングルとアルバムを統合し、MBVのギターポップイノベーターとしての地位を獲得したのだ。Feed Me With Your Kiss(これは4曲入りEPでもリリースされ、全曲がここに含まれている)の特色となる無題のシングルはもっと甘く、しかし不協和音的へとなる方法を彼らに見出したが、本質的には全てにおけるやり方を一般的な方向に「もっと」押し出したのである。もしFeed Me With Your KissとI BelieveがそれほどまでにRealiseにおいて調和できていなければ、少なくとも彼らはより広域な情緒的範囲でさえもバンドの把握内であるとほのめかしただろう。
Isn't AnythingはMy Bloody Valentineのディスコグラフィーの中でも特異だが、こういった期待を満たしていている。バンドの最高作だというファンもいる。代わる代わるダークでスロウ、そして楽しく活気に満ちている面が現れる。つまり速いテンポの曲、例えばNothing Much to LoseやSueisfine、ドラマーのColm Ó CoísóighakiはKieth Moonのようなフィルをすべての小節の終わりに加えている。スロウな曲は例えばLose My BreathやNo More Sorryといった、ギターが大きく鳴り響き、ガチャガチャ言う音、そしてMBVらしい力の抜けたダークでゴシックな音があり、最後には曲をやめずとも伝わる雰囲気を伝える方法を見つけたのだ。
ここのトラックの素晴らしさ以上にIsn't AnythingはMBVの独特なダイナミックさを具現化している。ノイズポップの領域では欠かせない資料であり、すでにその時はシューゲイズだと呼ばれていたが、MBVの大部分はLovelessというよりもここに見つけうるのだ。しかし、それは明らかにこの一つのバンドの作品なのでもある。My Bloody Valentineの中心というのはDinosaur Jr.とHüsker Düの破壊的パワーと、インディーポップの優美なもろさを混合したものだ。つまりは男性的かつ女性的なダイナミックさが完成しており、ただそれはKevin ShieldsとシンガーでありギタリストのBilinda Butcherの間の素晴らしい相互作用を通してではなく、ギターノイズに対抗する彼らの声のエフェクトを通して完成されている。My Bloody Valentineは新たな両性の官能性をポップの中にこめるという表現を提示し、かなり性的ではあるがまた、抽出された音楽を作り出し、細かいところには欠けるが感情を伴ったヘビーさを持っていた。そしてIsn't ANythingはほかのレコードとの関係性の中に存在する必要はないのだ。もし彼らがここで活動を止めていたなら、My Bloody Valentineの名声は確実だっただろう。幸運なことにかれらは活動を止めたりしなかった。他の画期的な出来事がその時期にあったのだ。
しかし、彼らがそこに行き着く前にMBVはさらに二つのEPを提示し、二枚とも1988-1991コレクションに収録された。Gilderは1990年のもので、彼らが以前やっていたサウンドからはかなり変遷が見られる。最初のシングルのSoonは物議をかもし、Brian Enoが「新たなポップのスタンダード。これまでにヒットした音楽の中では最も漠然とした曲。」と表現したことはよく知られている。そのぼんやりとしたとこらが次に述べることの重要な鍵なのである、というのもShieldsは自分の初期のアイディアを取り上げて、それをどれだけテクスチャーや純粋な感覚の領域に押し出せるかを考えていたからなのだ。つまりSoonはそのドラムのブレイクビーツとコードチェンジやメロディ、そして一方ではsongのようにも聞こえるが、存在しない記憶の中の歌らしいとわかるまでは、すべてがぼんやりとしている。そしてこの霧深さは推進力やギターが入っていくる時のノイズへの衝撃を失わずに発生しているのである。明らかに物事はMy Bloody Vslentineとはかなり異なっていた。
Gilderはインストのタイトルトラックのよって完成され、ショーケースでその曲を披露した時Shieldsはフェーズシフトを使ってリズムの特徴をわからなくさせ、もともとあった畏敬の念が入り混じった、不安な感情を作り出した。ちょっと「間違っている」ようにも聞こえるが、見事でもあり、そして少しばかりちょっと前の曲のようでもある。MBVの続くEP、Tremoloは出資金をさらに上げた。これは純粋にLovelessの対をなしている。よろよろしたTo Here Knows Whenで始まり、Glinderのくらくらするような精神錯乱状態を取り上げて、Butcherの信じがたいほどの霊妙さを兼ね備えたボーカルと混合しているのだ。ずっと 破局してしまうような縁にいる感覚がありながら、深層にある感情の緊迫状態を添え、あたかも傷つけられたディストーションが無邪気なささやきと出会ったかのようである。二つを飲み込み(Swallow)、ループするハンドドラムとケルト音楽のシンセライン、そして破壊的なHoney PowerがLovelessでは全くの素晴らしい美としてマッチしている。
ご想像の通り、Kevin Shieldsのような完璧主義者が地下貯蔵室に素晴らしい残り物をリリースしないでおいておくわけはないし、それはEPコレクションを満たしたおまけについては真だと言える。Instrumental 1はドラムの小休止とギターノイズのミックスで、今後ありうる方向性を示唆するようなサウンドは少なく、逆に(MBVが)インスパイアしてきた多くの音楽の退屈な例のようになっている。10分のGlinderバージョンが歓迎されたのは、永遠に続いて欲しいと願うような催眠術の復唱のようなものを土台にしているからだ。だが、歯切れの良いポップチューンがディスクの最後にもっと良いのにと思う--SugarやAngel、Good for youといった曲--これらはEPの中でも素晴らしい作品だという褒め言葉である。
Tremoloは3月に発表され、Lovelessがその年の11月に世界公開されるまでには七か月の空白期間があった(NirvanaのNevermind6週間後)。Lovelessへの期待が高かったことを言えば、控えめな言い方ではあるが、すべて想像範囲内のやり方で届けられた。いくつかのポップアルバムは決まって宗教的観点から表現されているが、これはその一つである。その理由の一つには(魔よけ)塩効果のある聖書のように、解釈を大っぴらに残しているのだ。Enoの引用に戻ると、そこには多くのこういった曲が「意味」しているようなことは言っていない、それは歌詞を読んだ後であっても同じである。彼らは頭の中心にあるような言葉やその他の分野--記憶や触覚、そして感情の分野--を司る脳内にあるような言葉も使わない。このアルバムは頭で理解する以上に感覚器官でもって感じられるだろう。
この時にはKevin Shieldsはバンドリーダーというよりも狂った科学者のようであり、継続して新たな音を発展させたり改造したりしていた。彼は実質的にはすべての楽器を演奏したし、(Ó Coísóigによる一分のTouchedを除けば)取りつかれたように一番小さな詳細にいたるまで改造をした。そして、Lovelessの真というのはそのミックスなのである、一つのサウンドから次へと至る際の完璧な均衡なのだ。2つのEPを導くハイライトはその軸だ、しかし実際Lovelessはすべてが注目に値する。私は人生で何千ものアルバムを聞いてきたが、これは本質的に完全な作品として私の心に響いた数少ないもののひとつである。これはまた二つの世代を驚くべきサウンドとして現れる音の可能性に、リスナーの注意を向けさせたアルバムである。もしインディー音楽ファンがどのようにテクスチャーにある感情の可能性に耳を傾けるよう教えられていなかったら、Fennezのような人がそんな摩擦が大きいところに近づいていくのを想像するのは難しい。これは年月を衰えさせない歴史的産物であり続けている。
これが導くのはあるリイシューに対する、たくさんの奇妙で皮肉がこもった事柄の一つである。つまり、完全とは2つの競いあうバージョンがあってこそ提示されるということだ。Lovelessは2xCDセットでリリースされ、一つはオリジナルのDAT(デジタルオーディオテープ)からリマスターされたもの、そしてオリジナルのアナログマスターからリマスターされたたものだ。この妙な決定の裏にある理由は私たちが完全に理解することはできないだろう。ほかの場所で指摘された通り、2つのディスクが間違ったレッテルを貼られるとか、そのハーフインチアナログのマスターがDAT(デジタルオーディオテープ)からリマスターされたと理解され売るというのはありえるが、それは逆の場合も同じだ。これはこちらでもあちらでもない(どちらでもない)のだ、もしまともな考え方をする人は自問自答して、「どっちのLovelessリマスター今夜聞いたらいいだろうか」なんて聞いたりしないと思うなら。
Shieldsが言うには、エフェクトの違いというのは累積するものだし、すべて聞いたところでもって完全に理解されるのだという。3つの異なるヘッドフォンでCDを聞き、さらに二つの、質を変えられるステレオシステムで聞いたところ、ちょっとは異なるが(一つはわずかに音量が大きかったが)質的な違いというのは極めて小さいといえる、ベストを尽くしてもだ。そしてリマスターのWhat You Wantには電子的な溝がある、これはどれだけリマスターするのに時間がかけられたかを思うと滑稽で笑ってしまうし、また悲劇的でもある。だがら私が聞くときはそういった誤りを無視して聞こうと思う。
詳細は置いておいて、三つのセットのリマスターはすべてよくできている。Lovelessは非常にそして適切な具合で最も静かな「ラウド」レコードの一つであり続けてきた。iPodで聞くときは、ボリュームを常にマックスに近づけても聴力が傷つくなどとは感じないだろう。そしてこのスキが確実にレコードのダイナミクスでうまく働いているのである。つまり、ギターがSoonやOnly Shadowで高まってくると、もっと心底から震え上がらせることだろう。
一番重要なのは、この音楽が存在しているということであり、おそらくこの先出来うる中でも最も良いサウンドだろう。一バンドとしても一つのアイディアとしても、My Bloody Valentineは多くの物事を表象している。つまり音の完璧主義者、並外れた野心や過剰さといったことだ。しかし、とりわけ彼らが具象化している質というのは忍耐である。彼らはリスナーを待たせるのだ--素晴らしいアルバムへの応答、素晴らしいアルバムのリマスターバージョン、そしてさらにDコードで演奏したライブバージョンのYou Made Me Realiseが最後に発表された。バンドの中にはそれが欲しいなと思ったその時に、求められるものすべてを的確に与えてしまうバンドもいる。それがMy Bloody Valentineにおいては、こちらから歩み寄って、彼らのやり方で音楽を経験しなければならない。しかし、彼らが求める要求はたっぷりと除外したりしない。実際、彼らは何度もリスナーの献身に応えている。何年もの間、Kevin Shieldsは続くLovelessについての難点を話し合ってきた。その話はたいてい金の問題が中心だった--彼はどれほどの契約金を得、彼はその音楽をよみがえらせるための資産がどれほど足りなかったのか、またそれを世界にリリースするにはどれほど資金が足りなかったのだろうか。これらのリリースはいくらかのお金をリスナーに与えるあろうが、My Bloody Valentineの奇跡的な年月、1988年から1991年の間の作品はまたこういった商業の外にあるのだ。もっとも贈り物のようには感じられるだろうが。
Pitchfork; My Bloody Valentine
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